Yukiyanagiな日々

趣味で創作活動しています。野生動物、北方狩猟民大好き。創作活動の報告や、日々思うことを綴ります。

アドラー心理学による人生の見方/承認欲求に捕らわれてない?

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前回に引き続き、アドラー心理学の話です。前回の最後で「自由について語る」と書きましたが、私たちが人生を生きにくいと感じるのはその「自由」を感じられないためです。「嫌われる勇気」の青年も「人生にはどうしてもしがらみがある」と言っていますが、私を含め多くの人がそう感じています。ではその「しがらみ」とは何なのか、それを解きほぐすにはどうすれば良いのか、今回はそれを書いていきます。
私のブログではこの書籍の内容はかなりはしょっています。また本書の内容、つまりアドラーの唱える内容を私も100%飲み込んでいる訳ではありませんので、わかる範囲で、納得している範囲で書いています。


誰のための人生なのか


私たちがこの人生を生きるうえでもっとも厄介で避けられない問題、それは「対人関係」です。対人関係とは、直接面識のある人物との関わり合いだけでなく、アドラー心理学では世の中のシステム、ビジネスなど、人間活動に関わる全てのことを指します。そして人のすべての悩みはこの対人関係だとしています。
さて、この対人関係において私たちが一番意識すること、それは「承認欲求」ですよね。あの人からよく思われたい、認められたい、褒められたい。また最近の事としてはネットユーザーとしてSNSでいいねボタンを押してもらいたい、リツイートされたい、話題の人物になりたい、などがありますね。
しかしアドラー心理学では、こういった一切の承認欲求を否定します。なぜなら私たちは、他者の期待を満たすために生きているのではないからです。
こう聞くと、じゃあ独善的に身勝手に生きるべきなのか、と捉えてしまうかもしれません。特に自分の選択より他人の顔色が気になる私たち日本人にとっては、尚更そう思えるでしょう。ですが、他人の期待通りに生きようとすることは、本当のありのままの自分を捨てた、他者の人生を生きることになってしまいます。一体何のために、私たちはこの世に生を受けたことになるでしょう。

それに承認欲求に沿って生きるということは、どんな善行も他者からの賞賛が無ければやらない、という判断基準になってしまいます。つまり人のいないところでは悪いこともやれる、ということです。

ではそれを克服するためにはどうすればいいのか、そこでアドラー心理学では「課題の分離」を述べています。課題の分離とは、どこまでが自分の気にするべきことで、どこからが他人の気にかける問題なのかを、明確に分けて考えることです。その判断基準は「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」です。
たとえばゴミ拾いについて考えてみましょう。職場にゴミが落ちていて、職場が汚れていると思うから掃除をするとします。しかし、その行為に対して感謝するかしないかは他人の問題、つまり課題です。感謝されたいという気持ちだけで掃除をやるとすれば、それは課題の分離が出来ていないことになります。
課題の分離ができないということは、常に相手に対して見返りを求める思考につながります。「これだけやってあげてるんだから、あなたもこれだけ私に与えてよね」と思えてくるのです。そして最終的には「他人の操作」にもつながります。

他人の顔色を伺ってそれに沿って行動することも、実は見返りを求めている行為だと思うんですよね。たとえば「察する」という行為。あるブログで見つけた実際の話ですが、アメリカの大学でルームシェアしている日本人の学生が、ある日部屋が汚いと思って掃除をしました。しかしそれに対して同居しているアメリカ人の学生は何の手伝いをするでもなく次から掃除をやってくれるわけでもなかったそうです。それが何度も続いたため文句を言ったところ、アメリカ人の学生は「だったら最初から掃除しよって言ってくれればよかったのに。私はあなたが掃除が大好きな変な人だと思ってた」と返したそうです。これは日本人の学生のほうに課題の分離ができていなかったと言わざるを得ません。「掃除してやってるんだから、あんたも手伝って普通だよね」と思うのは相手の見返りを求めるばかりでなく、相手を操作しようとする考え方です。自分が掃除していることに対して手伝おうとするかしないかは本来相手の課題なのです。それが日本人同士なら大抵それを「察して」手伝ったり交代で掃除したりしますよね。むしろ「今あの人が●●しているから気遣ってあげないと恨まれるかな」という心配をすることを要求されます。そうやって先回り先回りして相手の期待するであろう行為をとらなくてはならず、それをしない人を日本社会では「空気を読まない人だ」と判断します。でもそれって、互いに見返りを求め合う甘えた社会構造だと思いませんか?


課題を分離することは、人生をとてもシンプルにします。たとえば本書の青年の職場環境のように、話が全く通じない上に事あるごとに怒鳴りつけてくる上司がいるとします。このとき、「こんな上司のせいで仕事がスムーズに行かない」と考えるのは、前回このブログでご紹介したように「原因論」であり、責任を転嫁しています。仕事がうまくいかないことに対しての口実として「嫌な上司」の存在を必要とするのです。
アドラー心理学では課題を分離して、話を聞かずやたら怒鳴る行為は「上司の課題」とします。それに対してどういう行動をとるかどうかは「自分の課題」なのです。上司が自分を嫌おうが罵ろうが、それは上司の問題です。自分の気にかける事項ではないのです。それより今自分が仕事をどうこなしていくかについて最善の策を考えるべきなのです。
つまり課題を分離して自分自身で生きるということは、自分に正直になるだけでなく、物事の本質を自分の目で見て考え、行動していくことに他なりません。たとえ他人が評価してくれなくても、バカにされても、自分が正しいと思ったことを貫いていく生き方になります。そしてその正しいと思ったことを、他人には押し付けません。困っている人がいるならサポートをするが、最終的にどうするかはその人次第と考えます。ヨーロッパのことわざに「馬を水辺へ連れて行くことは出来るが、水を飲ませることは出来ない」がありますが、課題の分離とはそういうことです。他者の課題に介入せず、また自分の課題にも誰一人として介入させない、というスタイルになれば、対人関係(=人生)はシンプルになるのです。


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ネット社会とどう向き合うか


これは私の問題でもあるのですが、同じように感じている方も少なからずいると思いますので、書いておきます。ブログやSNSにはほぼ必ず評価や賛同を示すボタンがついています。TwitterやFacebookのいいねボタンやリツイート、シェア。しかもそれらにはその回数が表示されます。ブログにも拍手ボタンのような賛同を示すボタンが用意されており、押してもらえれば嬉しいけど、押してもらえないと落胆する。更に私の場合イラストの投稿先としてpixivやDeviantArtを利用していますが、これらにもお気に入り・ブックマークの数、評価数などが表示され、いやでもその作品が人気かそうでないかがわかってしまいます。このように昨今のネット社会は常に相手の評価を気にするよう仕向けるシステムを作っています。私も自分に自信がないので、特にpixivでの点数やブックマーク数は気になってしまいます。そして私たちがそれに気をとられ踊らされることは、運営会社にとっては思う壺なんですよ。

その結果何が起こるでしょうか。相手が反応してくれそうも無いことは発信することをやめてしまいます。むしろある程度わかりやすく、そして突飛な内容を発信することだけに集中し、時には身を危険にさらすようなことまでしてしまう場合があります(私はやりませんけど)。するともはや自分が何を伝えたくて本来SNSなどのネットサービスを使っているかわからなくなってしまいます。もちろん自分の作品を他者の目にさらすことで客観的な感想やデータを得ることが出来、更なる創作活動の向上につなげられるということはありますが、それよりも周囲の人に認められたくて、ありのままの自分を抑制してしまうことの方が多いのではないでしょうか。
「こんな作品投稿したって誰も反応してくれないなら、出したって意味ない」とか「つまらん話題しか提供しないダサい奴と思われるんじゃないか」と萎縮してしまいますよね。

ですがここでアドラー心理学の課題の分離で考えてみましょう。自分がどういった目的で作品を出すか、それは自分の課題です。それに対して評価するかしないか、賛同するかしないかは相手の課題なのです。SNSやpixivなどで評価をもらうテクニックみたいなのを聞いたりそういった記事を見ることがありますが、あんなのは正直意味が無いと思います。何のためにあなたが発信してるんですか?

また自分にとって都合の悪いことを発信した相手に対して「自重しろ!」みたいなコメントを寄せる場合がありますが、これも相手を操作しようとする行為です。そんなコメントをした人間も課題の分離が出来ていません。反論があるわけでもなく、只不愉快なだけならそのままそのページから離れればいいだけのことです。そして発信者側もそういった批判に怯えて言いたいことを控えるべきではありません。公序良俗に反し、特定の人物や団体を誹謗中傷し損害を与えるような内容でないなら、不愉快に感じるかどうかはそれを見た相手の課題なのですから。

だから(私自身も心がけるべきことですが)、自分がこれを発信したいと思うなら、人目や評価など気にせず堂々と出せばいいのです。そしてたまにでも良いから、本気で「好きだ」と言ってくれる人がいるなら、その人の声を大切にすればいいのだと思います。むしろやたら評価集めをしようとすればするほど、その1件の反応に対する価値は低くなります。pixivを見てても、何十件も評価もらってるのに「私は評価が少ない、何で?」と嘆いている質問をYahoo知恵袋などで見かけることがありますが、私にはそこまでもらってて悩んでる意味が分かりません。そしてその結果、ある程度の数が来ないと自分は価値がないと思い込んでしまい、萎縮したり、或いは反応してくれない周囲に対して恨みを抱いてしまいます。ネット依存症の人が起こす犯罪などは、それが原因です。


課題を分離し、自分自身に生きるということは相手を遠ざけて身勝手になることでは決してなく、誰にも依存しない、他人と程よい距離での関係を築いていくための第一歩なのです。



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