Welcome to my blog

好きなことに真っ直ぐ。気ままに気楽に。
創作だったり、思うことだったり、旅行だったり。

06

アドラー心理学による人生の見方/承認欲求に捕らわれてない?

2016_3_06_img1.jpg

前回に引き続き、アドラー心理学の話です。前回の最後で「自由について語る」と書きましたが、私たちが人生を生きにくいと感じるのはその「自由」を感じられないためです。「嫌われる勇気」の青年も「人生にはどうしてもしがらみがある」と言っていますが、私を含め多くの人がそう感じています。ではその「しがらみ」とは何なのか、それを解きほぐすにはどうすれば良いのか、今回はそれを書いていきます。
私のブログではこの書籍の内容はかなりはしょっています。また本書の内容、つまりアドラーの唱える内容を私も100%飲み込んでいる訳ではありませんので、わかる範囲で、納得している範囲で書いています。

誰のための人生なのか

私たちがこの人生を生きるうえでもっとも厄介で避けられない問題、それは「対人関係」です。対人関係とは、直接面識のある人物との関わり合いだけでなく、アドラー心理学では世の中のシステム、ビジネスなど、人間活動に関わる全てのことを指します。そして人のすべての悩みはこの対人関係だとしています。

さて、この対人関係において私たちが一番意識すること、それは「承認欲求」ですよね。あの人からよく思われたい、認められたい、褒められたい。また昨今の世の中ではネット上でいいねされたい、リツイートされたい、人気者になってちやほやされたい、などがありますね。

しかしアドラー心理学では、こういった一切の承認欲求を否定します。なぜなら私たちは、他者の期待を満たすために生きているのではないからです。 こう聞くと、じゃあ独善的に身勝手に生きるべきなのか、と捉えてしまう人が少なからずいるかもしれません。特に、自分らしくいるより人に好かれることを重視する(しすぎる)私たち日本人にとっては尚更そうでしょう。ですが、他人の期待通りに生きようとすることは、本当のありのままの自分を捨てた、他者の人生を生きることになってしまいます。一体何のために、私たちはこの世に生を受けたことになるでしょう。

それに承認欲求に沿って生きるということは、どんな善行も他者からの賞賛が無ければやらない、という判断基準になってしまいます。つまり人のいないところでは悪いこともやれる、ということです。

ではそれを克服するためにはどうすればいいのか、そこでアドラー心理学では「課題の分離」を述べています。課題の分離とは、どこまでが自分の気にするべきことで、どこからが他人の気にかける問題なのかを、明確に分けて考えることです。その判断基準は「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」です。

たとえばゴミ拾いについて考えてみましょう。職場にゴミが落ちていて、職場が汚れていると思うから掃除をするとします。しかし、その行為に対して感謝するかしないかは他人の問題、つまり課題です。感謝されたいという気持ちだけで掃除をやるとすれば、それは課題の分離が出来ていないことになります。
課題の分離ができないということは、常に相手に対して見返りを求める思考につながります。「これだけやってあげてるんだから、あなたもこれだけ私に与えてよね」と思えてくるのです。そして最終的には「他人の操作」にもつながります。

他人の顔色を伺ってそれに沿って行動することも、実は見返りを求めている行為だと思うんですよね。たとえば「察する」という行為。あるブログで見つけた実際の話ですが、アメリカの大学でルームシェアしている日本人の学生が、ある日部屋が汚いと思って掃除をしました。しかしそれに対して同居しているアメリカ人の学生は何の手伝いをするでもなく次から掃除をやってくれるわけでもなかったそうです。それが何度も続いたため文句を言ったところ、アメリカ人の学生は「だったら最初から掃除しよって言ってくれればよかったのに。私はあなたが掃除が大好きな変な人だと思ってた」と返したそうです。これは日本人の学生のほうに課題の分離ができていなかったと言わざるを得ません。「掃除してやってるんだから、あんたも手伝って普通だよね」と思うのは相手の見返りを求めるばかりでなく、相手を操作しようとする考え方です。自分が掃除していることに対して手伝おうとするかしないかは本来相手の課題なのです。それが日本人同士なら、大抵それを「察して」手伝ったり交代で掃除したりしますよね。むしろ「今あの人が●●しているから気遣ってあげないと嫌われるかな」と相手の顔色をうかがうことを要求されます。そうやって先回り先回りして相手の期待するであろう行為をとらなくてはならず、それをしない人を日本社会では「空気を読まない人(社会性に乏しい非常識な人間)だ」とみなします。でもそれって、互いに見返りを求め合う甘えた社会構造だと思いませんか?

課題を分離することは、人生をとてもシンプルにします。たとえば本書の青年の職場環境のように、話が全く通じない上に事あるごとに怒鳴りつけてくる上司がいるとします。このとき、「こんな上司のせいで仕事がスムーズに行かない」と考えるのは、前回このブログでご紹介したように「原因論」であり、責任を転嫁しています。仕事がうまくいかないことに対しての口実として「嫌な上司」の存在を必要とするのです。
アドラー心理学では課題を分離して、話を聞かずやたら怒鳴る行為は「上司の課題」とします。それに対してどういう行動をとるかどうかは「自分の課題」なのです。上司が自分を嫌おうが罵ろうが、それは上司の問題です。自分の気にかける事項ではないのです。それより今自分が仕事をどうこなしていくかについて最善の策を考えるべきなのです。
つまり課題を分離して自分自身で生きるということは、自分に正直になるだけでなく、物事の本質を自分の目で見て考え、行動していくことに他なりません。たとえ他人が評価してくれなくても、バカにされても、自分が正しいと思ったことを貫いていく生き方になります。そしてその正しいと思ったことを、他人には押し付けません。困っている人がいるならサポートをするが、最終的にどうするかはその人次第と考えます。ヨーロッパのことわざに「馬を水辺へ連れて行くことは出来るが、水を飲ませることは出来ない」がありますが、課題の分離とはそういうことです。他者の課題に介入せず、また自分の課題にも誰一人として介入させない、というスタイルになれば、対人関係(=人生)はシンプルになるのです。

ネット社会とどう向き合うか

2016_3_06_img2-2.jpg

これは私の問題でもあるのですが、同じように感じている方も少なからずいると思いますので、書いておきます。ブログやSNSにはほぼ必ず評価や賛同を示すボタンがついています。TwitterやFacebookのいいねやリツイート、シェア。それらには必ずその数が表示されます。ブログにも拍手ボタンのようないいねボタンと同じものが用意されており、押してもらえれば嬉しいけど、押してもらえないと落胆する。私の場合さらに作品の投稿先としてpixivやDeviantArtを利用しているのですが、これらも当然ブックマーク・評価の数が表示され、いやでもその作品が人気かそうでないかがわかってしまいます。このように今のネット社会は常に相手の評価を気にするよう仕向けるシステムを作っています。私も自分に自信がないので、常にSNSでの作品の評価は気になってしまいます。そして私たちがそれに気をとられ翻弄されることは、運営会社にとって思う壺なんですよね。(そこまで分かっててなぜ解放されない?)

その結果何が起こるでしょうか。自分の好きなことや思うことを素直に発信するのを躊躇ってしまい、誰にとってもわかりやすく共感されやすいものだったり、目立つことを発信することだけに集中し、身を危険にさらしたり、自分自身が激しく消耗することになります。するともはや自分が何を伝えたくて発信しているかわからなくなってしまいます。
こう書くと、創作界隈では「自分の作品を他者の目にさらすことで客観的な感想を得ることが出来て、作品の質の向上につなげられる」と言う人が必ず出てきます。自分の創造性において「客観的」って何なんでしょう?? 商売をするのであれば、利益を上げなければならないので消費者の声を聞かなければなりませんが、個人で好きに発信している分には関係ないでしょう。

アドラー心理学の課題の分離で考えてみれば、自分がどういった目的で作品を出すか、それは自分の課題です。それに対して評価するかしないかは相手の課題なのです。SNSでたくさん評価をもらうテクニックみたいなのが巷には溢れかえっていますが、それではただ自分を見失うだけです。何のためにあなたが発信してるんですか?

また、自分が気に入らないことを発信した人に対して、すぐ揚げ足を取って炎上させることが多発していますが、これも相手を操作しようとする行為です。炎上に加担した人間には課題の分離ができていません。不愉快ならただその場から離れればいいだけのことです。そして発信者側も、そういった批判に怯えて言いたいことを控えるべきではありません。公序良俗に反し、特定の人物や団体を誹謗中傷し損害を与えるような内容でないなら、不愉快に感じるかどうかはそれを見た相手の課題なのですから。

だから(私自身も心がけるべきことですが)、自分がこれを発信したいと思うなら、人目や評価など気にせず堂々と出せばいいのです。そしてたまにでも良いから、本気で「好きだ」と言ってくれる人がいるなら、その人の声を大切にするべきです。そのほうがずっと自己肯定感を高められます。逆にやたら評価されようとすればするほど、その1件の評価に対する価値は低くなり、どんどん自己肯定感が下がるという、まるで麻薬中毒のような状態に陥ります。pixivで何十件も評価をもらってるのに「私は評価が少ない、何で?」と嘆いている質問をYahoo知恵袋で見かけたことがあり、私にはそこまでもらってて悩んでいるのが理解できませんでした。でも、多分その人は薬物ならぬ「いいね」依存症なんでしょうね。

課題を分離し自分自身に生きるということは、相手を遠ざけて身勝手になるということではなく、誰にも依存しない、他者と程よい距離での関係を築いていくための第一歩なのです。