因みにカナダでは、インディアンに相当する先住民のことをファースト・ネーションズと呼びます。こっちの方が私としては好きです。
さて、タイトルにもあるように、私が描く世界では何故そもそも北米先住民っぽい民族を描いているのでしょう。ひとつには征服者と被征服者の構図として歴史の情報が多く、世間の認知度も高いというのがありますが、根元にはオオカミの存在が関わっています。

実は北米先住民に興味を持ったきっかけが、オオカミについて知ったときでした。狩猟採集をして大自然とともに生きる北米先住民がオオカミを寛容の目で見ていたのに対し、森を切り開いて牧畜をしていた西洋人はオオカミを憎悪の目で見ていました。こうした同じ動物でも民族によって見方が全く異なることに興味を持ち、専ら西洋の価値観を刷り込まれていた日本人の私にとっては、先住民たちの価値観は斬新かつ素敵なものだと思うようになったのです。
2016年の夏までは創作物語「Canadiara」の前身として、「命の石」というタイトルのヨーロッパを舞台とした話を考えていました。しかしヨーロッパとはいえ主人公の狩猟採集民たちが暮らすのは東欧に近い深い森の中で、暮らしや価値観はかなり北米先住民に似ていました。それが作者の私が実際にカナダを訪問し、間近にファースト・ネーションズの文化に触れたことで虜になってしまい、舞台をカナダそっくりな世界にしてしまったのです。(正確には、パクリになりすぎないよう北欧の自然も取り入れています)
【余談】北米先住民をモデルにしてるのに西洋的な顔つきをしているのはかつての設定の名残です。長いことヨーロッパの森に暮らしている設定だったので、今更北米っぽい民族になったからと顔つきをモンゴロイド型の平たい顔に変更する気になれませんでした。
ご存知の通り、オオカミという動物は世間では「貪欲・凶暴・暴漢」というイメージで定着しています。
詳しいことはわかりませんが私が知る範囲では、例えば少女漫画の世界ではオオカミをモチーフにした男子キャラが、粗野で孤独を好むとか、(男女関係において)肉食系とか、或いはそれを意識して敢えて逆パターンになってるとかがメジャーになっています。また最近では、嘘つきの代名詞としてオオカミくんなるものが出てくるドラマがあるみたいですよね。
またアダルト系のモチーフとしても好まれやすく、オオカミに魅せられて人間の理性を失い本能で生きていく女性とか、女性をたぶらかして犯すオオカミ男とか、野性の象徴として表現されています。こんな映画を見続けたらオオカミがすごく淫乱で危険な動物に思えてきそうですよね。
でもこれらは全て、西洋のイメージの延長に過ぎません。本能で生きてるのは何もオオカミをはじめとした肉食動物ばかりではありません。ヘラジカだってハリネズミだってコマドリだって本能で生きてます。お腹がすいたら食べ物を探し、繁殖期が近づいたら異性と交尾する。何故オオカミばかりいやらしく捉えられてしまうんですか?
西洋のイメージが強いなら、こっちは北米先住民のイメージで表現してやるよ、っていうのが私の意気込みです。北米先住民の文化では、オオカミは「家族愛・兄弟愛・狩りの教師・忍耐力」の象徴です。ただ、私はそれプラス実際のオオカミの生態にも注目し、けっして野蛮ではない人間の態度とオオカミとで重なる部分は無いだろうかと考えています。
イヌの祖先がオオカミだという話は皆さん知っているかと思いますが、ではなぜ猛獣のはずのオオカミが人間の最良の友になり得たと思いますか。それはどちらも集団をつくり、強い絆で協力し合って暮らしているからです。そこには必ず頼もしいリーダーがいて、リーダーの存在が集団の団結力を強めます。またオオカミも人間もどちらも一夫一妻。パートナーとは一生沿い続けます。(人間は浮気をするけどオオカミについてそんな話は今のところ聞いたことがありません)
こういったオオカミと人間の生活スタイルの共通点から、新しいオオカミモチーフのキャラクターを表現したいと思ってできたのが彼なのです。

彼はただでさえオオカミ族というオオカミのような身体的特徴を持つ人種なのに、プラスオオカミの毛皮を被っています。もはやダブルオオカミ!
彼が被っているオオカミの毛皮、実はずっと一緒に暮らしてきた、兄弟的存在なのです。それがオオカミを嫌う敵に殺され、見せしめとして毛皮を剥がされてしまったので、彼はそのオオカミを弔う気持ちで、そしてそのオオカミの分も生きる気持ちで身に纏うことにしたのです。
しかし、彼のような「鳥獣人」の社会では、シャーマンでもない人が日常的に肉食動物の毛皮を身に付けることはご法度。特に自分たちに似た動物はかつての祖先に当たるとされているのでもっと駄目です。それは、自分たちと同じ他の動物を食べる動物(魚食は別)の毛皮を身につけるということは、即ちその毛皮の動物と同化することであり非常に危険だと考えられているからです。(凶暴化するという意味ではなく、彼らの神話に基づき不幸になると考えられているのです)

でもそれは百も承知のこと。だから彼は、半分マジで動物のオオカミとして生きる道を選びました。故郷の村を去り、孤独な一匹オオカミとして生きていきます。人を助けても、素性は明かさず、お礼も受け取りません。しかし彼の本当の目的は「偉大なるリーダー」を見つけること。オオカミの群れが賢いリーダーの下に結束するように、敵の侵略に苛まれる中、自分たちをまとめ、強く賢く導くリーダーが必要だと考えているのです。
【追記】
西洋的価値観がオオカミを野性の象徴として表現してしまうのには、イヌの存在があると私は考えます。人間に懐き、人間の役に立つイヌに対して、瓜二つのオオカミは人間に懐かず、時として害を及ぼす存在です。だから、人間の力の及ばないオオカミの存在感が、野性そのものに思えてしまうのでしょう。