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好きなことに真っ直ぐ。気ままに気楽に。
創作だったり、思うことだったり、旅行だったり。

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私にとって絵を描くとは何か【過去を冷静に見つめて自由になる】

※実際の投稿日は2024年2月17日ですが、他にもっと見てほしい記事があるので敢えて日付を古くしています。

これまで思ったことを割とTwitter(X)に投稿してたんだけど、短い文しか載せれないプラットフォームでは私が異様に気難しい人だという印象を与えるだけだし、もうSNSは私の創作活動の宣伝用として使うことに決めたから、こういう内面的な話はブログだけにしました。

タイトルにもある通り、私にとって絵を描くってなんだろうって考えたんですよ。で、いろいろ思考していくうちに、私は余計なことにずっと苛まれてたんじゃないか、人と自分を比べて自分に合わないことを要求してたんじゃないかって考えたんですね。「人は人、自分は自分」とよく聞くけれど、それが長らく腑に落ちていなかった。自己肯定感がなくコンプレックスだらけなせいで、俗っぽい価値観に身を委ねていたのではないかと考えました。

それを自分の中で納得させるには、ずっと自分が直視したくないと思っていた過去と向き合い、それに対してちゃんと分析する必要がありました。なのでこの記事は、皆さんに読んで愚痴を聞いてほしいわけではなく、自分の思考を整理し、すっかり習慣化してしまった歪んだ認知を矯正するためのものとなっています。ただ、誰にでも見られるところに出しておくことで、思考がより整理されるのと、ついでに世の中にはこんな経験や思いをしてきた人間がいるんだよっていうことを、見えるようにしておきたいと思います。

※この後文章が長く続くので、結論から先に読みたい人はここをクリックしてください。

プライドを奪われた青春時代

私は、特に思春期以降、学校や外で自分の絵が正当に評価されたことがありません。画力は同級生と比べても上手い方だと思っていたし、私の絵を上手いとは言っても下手だと言う人は一人もいませんでした。しかし口頭では褒められても、何かに選ばれるとか、賞を取るという経験はありませんでした。

普通、絵が上手ければ賞も取れると思うじゃないですか。私もそれを信じて疑っていませんでした。だから、上手だねって褒めてもらえても、どうして学内のポスターやノベルティのデザインに選ばれたり、何か賞をもらうことができないんだろうと思ってて、もしかして、上手いと思ってるのは自分だけで、他の人はお世辞を言ってるのか?と他人を疑い始めました。

高校時代のトラウマ

それを裏付けるかのように、高校生の時に完全に打ちのめされました。進学校に入っちゃってただでさえ勉強ついていけなくて辛いのに、とうとう大事な絵までプライドを傷つけられました。美術の先生が自分の判断に自信のない人で、出来上がった作品をクラスのみんなで評価を付け合おうと言いました。今のSNSのいいねボタンのようなもので、気に入った作品の人のところにカードを置くのですが、クラスの比較的絵の上手い子が一番カードをもらい、私は誰からもカードをもらえませんでした。私は自分が上手いと思っていたのは嘘なのか、私はどこにも自分の存在価値を認めてもらえるところがないんだって、傷つきましたよね。

今思えば、この先生のやり方は美術教育にあるまじき不適切な態度です。美術芸術というのは、他人からの評価ではなく自分に生き、既成概念から解放されるための行為なのに、人から好かれる表現が正しいと遠回しに教えています。しかも、私が最近読んだ本でわかったことですけど、人間には他人の行動を模倣する本能があるので、誰かがいいねしているものを無意識に自分もいいねしてしまう、そういうところがあります。一番評価されてる子は「評価されてるから」という理由で選ばれたし、私は「評価されてないから」という理由で無視されました。今のSNSで起きているようなことを、私は教室の中で先生の方針のもと晒されました。

親からの慰めも追い打ちをかけました。「あんたが自分は凄いんだぞってことを誇示したくて描いたからそれが伝わったんじゃないの?」と言う一方で、「別に評価されなくてもいいんだよ」と言ってアンリ・ルソーの話を持ち出してきました。ネガティブ思考の私は「絵が下手なうえに自己顕示欲の強いどうしようもない子だと言いたいのか」と思い込み、それが大人になってもずっと引きずっていました。ほんの数年前まで、SNSに上げた渾身の作品が思うような評価を得ないと「自分が凄いと思われたくて描いた絵だから評価されなかったのだ」とこじらせまくった捉え方をし、猛烈に傷ついていましたね。

当時親は精いっぱい私を励まそうとしてたんだと思います。でも、10代以降の私の絵を「カッコつけててつまらん」とか「あんたの逆鱗に触れるからこの話はしたくない」とか「幼稚園の頃は素直で良かったのに」とか言いまくってたので、基本今の私の絵は嫌いなんだろうなって思ってました。だからあまり慰めには感じられなかったのです。

大学時代のイキった同期の発言にも傷つく

大学の創作サークルのある同期が、さも自分は志が高いのだと言いたげなことを連発していました。私も向上心は昔から旺盛だったので彼女の言う事を無視できず、つい真に受けてしまっていました。そのとき「自己満足で絵を描くって良くないよー、良い作品にならないよ★」って言われたことに猛烈に傷ついたんです。それがどういうことか、もっと詰めて聞いてみればよかったのですが、既に自分の絵は他人からの評価を得ないものだと思っていたので、詳しく問い詰めてみる勇気がなく、「SNSで評価の少ない作品はダメだ、存在価値がない」とディスられている気がして勝手に傷ついていました。当時の彼女が本当はどんなつもりで言っていたのか、真相はいまだに謎です。(ちなみに、この発言は私の作品を見て言っていたわけではないので、冷静に考えればディスりではないと思う)

なので、高校時代と大学時代の嫌な思い出が、ずーーーっと私を苦しめ、なかなか解放されませんでした。家族や友人に相談することもありましたが、家族は相変わらず絵の話は嫌がっていたし、友人は気を遣ってるんだろうなあって感じて素直に受け止められませんでした。自分で自分を励まそうにも、私を冷たい目で見降ろすもう一人の自分が育っていて、容赦なく私を傷つけることを囁いてきます。本当に、苦しい思いをして生きてきました。

努力が報われてやっと冷静になれた

しかし、やはり私にとって絵を描くことはやめられず、誰からも評価されなくても続けてきました。やがて、わかりやすい絵はSNSでの反応が良かったり、フリー素材はとても好評でテレビ番組にまで使用されたり、あれだけ酷評しか言わなかった父親が褒めるようになったり、母親もようやく私の絵を綺麗だとか好きだとかポジティブなことを言ってくれたり、私の創作活動への思いを聞いてくれるようになったり、そして、博物ふぇすに出展して私のありのままの表現を好いてくれる人たちが出てくるようになったりして、現実が少しずつ報われるようになってきました。

そしたら、私はもっと冷静に分けて考えてみるべきところを、こんがらがったまま落ち込んでいたのではないか、と気が付くようになってきました。

「自己顕示欲で描いたから評価されない」の真相

私は多くの一般の人が考えている通り、「絵が上手い=評価される」という方程式を信じて疑っていませんでした。そして10代の頃は、人づきあいが苦手という大きなコンプレックスを抱えていました。高校生になると、人間関係は改善したものの今度は勉強についていけず、こっちはもっとコンプレックスでした。
そのため、どこかでこの激しい劣等感を回復させたいと切望していました。だから、美術の時間は格好のチャンスだと思ったのです。私は絵が上手いんだということを皆に「証明」しなければならないと切迫感でいっぱいでした。此処で認められないと、私の存在価値なくなるって、そこまで精神的に追い詰められていたのです。クラスで評価されていた子は、もっと気楽にやってたんでしょう。だからその子がクラスメートから評価され、私は自己顕示欲ギンギンなんだか、切迫感出まくってたんだか、なんか評価する気にならないものになっていたんでしょう。

ただ、そういう気持ち前面で描いた作品は、後で自分で見てもなんか面白味がありません。当時は必死だったからそんなこと考える余裕が1ミリもなかったんですが、月日が経ってから見返すと、凄そうに見られたいっていうのは伝わってきます。その点で当時の親の指摘は、的を得ていたと思います。私を自己顕示欲の強すぎるダメな子と言っていたのではなく、自由になれば良いものができたかもと言いたかったんだと思います。

でも逆に言えば、私の作品はそれだけ気持ちが作品に出やすいとも言えます。誰にも見せなかった過去の作品を見返すと、描いた当時のテンションがすごくよく伝わってきて、今の自分が見ても感染します。

♦ つい最近まで引きずっていたこじらせメンタルにメスを入れる

SNSで作品の評価が伸びないことを自己顕示欲のせいだと落ち込んでいたのも、とんだこじらせ勘違いですよ。私にとって、画力を上げて綺麗でカッコいい絵を描きたいと思うのは、「素直に」私が望んでいることです。それが、上手くなりたいとかカッコ良くしたいと思うのを「人から凄いと思われたくてやってるのでは」と捉えてしまうのは、冷静に考えてみれば、それは私の本当の感覚ではなく「他人がそう考えているのでは」と人の目を気にして委縮しているだけなんです。評価が良ければそんな心配しなくていいけど、評価が悪いとそう考えて落ち込んでしまう。自己顕示欲で描いたかどうかは、他人の反応で決めるって、そもそもおかしいですよね😂

SNSでの反応が皆より少ないと感じていた件について

SNSの「いいね!」はそもそも正当な評価ではありません。いろいろ周囲を分析したりドキュメンタリーを見たり本を読んだりしてわかってきましたよ。先のセクションでも触れた通り、人には他人の行動を真似するクセ、行列を見たら並んじゃうみたいな、いわゆる群集心理があります。私自身も、絵に限らずたまにSNSでいいねが多くつく時もあるんですけど、ある程度数を超えると、いいねがヴァーッと増えます。そしてこのヴァーッと増える時って、「皆がしてるから私も」っていうノリだなってわかります。

そもそもSNSは、できた当初からそういう人間の弱さを巧みに利用し、依存症にさせるよう考えられているのです。プラットフォームだって商売なんですからw

私は常々、どのSNSもいいね数が表示されなければいいのに、って思っていますよ。あんなもんあるせいで、私も含め、多くの人が翻弄されてるんですから。こんなクソみたいなシステムがなけりゃ、もっと伸び伸びとSNSに私の狂気の世界晒してやれるんだよ★

SNSでの評価が絶対なわけでないことは、昔も薄々感じていましたよ。ネット廃人になって営業しまくり、常に流行を追いかけ、「みんな」が好きな題材を選ぶ、そうすればおのずといいねの数も増えてくるって。でも、そんなことしたら本末転倒だ、いくらなんでもプライドがなさすぎる、アホ臭くてやってられるかって思ってやってませんでした。でも、そうやって自分らしくいたいと思ったとき「いいのか?醜い『自己満』になっぞww」って根性悪く囁いてくるもう一人の自分がいました。

♦ 「自己満はダメ」って意味不明なんですけどw

ところでその「自己満足はダメ」論って一体何なんでしょうか。一定数そういうこと言う人いますよね。客の依頼に応じて描く商業イラストレーターならまだしも、商売ではなく好きに描いてる人でさえ「こんなん自己満足ですから…」と自分を卑下するとき言うの聞くんですが、意味が分かりません。自分が満足しないで誰を満足させられるんですか?或いは自分が気に入らなくても他人が気に入ったらそれを優先すべきですか?それって卑屈じゃないですか?俗っぽくないですか?
他人が気に入るものを描くのが正義だとするなら、あなたが描く意味はありませんよね?今ならAIに投げちゃえばいいじゃないですか。違いますか?

絵が上手くて素直なら、必ず評価されたり選ばれたりするわけじゃないよ

SNSを使う以前、学校で合唱コンクールのポスターや学園祭の団扇のデザインに全く採用されなかったことも、ひとつにはこれがあると思います。「私は凄いんだぞ」アピールが出ちゃってたのもあったと思うけど、単純に皆の好みが私の表現のパターンと違っていたってことも十分考えられます。

「絵が上手い=評価される」というのは、評価する側と表現者の価値観が一致していることが前提です。私は一人っ子で親と仲が良く、祖母もいて価値観はかなり昔ながらだったと思います。同級生の趣味には興味がなく、このブログに何度も書いているように、基本日本の漫画やアニメは嫌いだし(トラウマ級の不愉快な思い出ばっかり)、J-Pop知らん(マジで洋楽しか聞かなかった)、同級生の謎の若者言葉もついていけない、そんな感じでした。そんなに価値観に大きなギャップがある状態で、彼らの琴線に触れる絵を描くのは、かなり難しくて当然でしょう。

そしてさらに、誰がどれだけ評価しているか可視化されている環境では、多数派と感性の違う私の成果物は、尚のこと賛同を得にくいものになっていたんでしょう。

趣味で投稿する絵は、基本的に情報量多すぎ

趣味で描いた絵が評価されにくかったもう一つの要因に、基本的に私の絵には「情報量が多すぎる」という問題もありました。

そもそも、私は1つの画面で完結する絵を殆ど描きません。基本的に自分の考えた世界を絵と文で表現することに特化しているので、単体の絵の中に内容が収まりきらず、イマイチ見る人に伝わりませんでした。稀に単発で思いついて、1枚の絵で完結する絵ができたときは、割と反応が良かったです。博物ふぇすで単体イラストより書籍の方がよく売れるというのも、こういうことでしょう。しかしそれも、見る人と私の好みが一致している、という前提の上でですが。

【結論】もう一人の自分、あまりにも根性悪くて草

以上のことから、私はあまりにも人の目を気にするあまり、随分自虐的な認知の歪みを起こしていたなとわかります。他人の目には私の作品は「自己顕示欲が強くてかつ自分勝手(人としてあるまじき行為)、何考えてるかわからない存在価値のないクズ」に見えてたんだなと、長らくそういう目で自分自身を見てきたことがわかりました。

でも、「凄いと思われたくて描くな」と言いながら「自己満足で描くな」とも言うのって、矛盾する相反する言葉じゃないですか。それを根性の悪いもう一人の自分が言っているのだと気付かず、他人は皆そういう目で私の作品を見ている、これが客観的な分析なのだと、自己肯定感が無さすぎて勘違いしていました。
そしてそんな「世間」を装う意地悪な自分は、どんな言葉をかければ私が一番傷ついて落ち込むのか熟知しています。真面目で融通が効かず、向上心があり良心的で傷つきやすい私が、何を言われれば自己嫌悪に陥れるのかわかっているのです。
しかし、それらの言葉にはなんの一貫性もなく、気持ちに余裕が出て冷静に考えてみれば、なんの筋も通っていないことが分かります。

ところで、冒頭からずっと評価、評価と書いてきましたけれど、「評価」という言葉自体、なんか上下関係みたいな感じがしませんか。相手が評論家気取りになって、独断と偏見で一方的に点数をつけるみたいな、なんかそういう上から目線を感じてムカつきませんか?アドラー心理学で「褒めるのは良くない」とありますけど、まさにそんな感じ。

結局私にとって絵を描くってなんだろう

詰まるところ、私の気持ちや思いの発露だったんですよ。ただ、それを直接表現するのではなく、自分の考えた物語やキャラクターを介して表現しているため、わかりにくくなっているだけです。それらがまとまって「作品群」となれば、本領を発揮できます。でも、たとえ1枚の絵では断片的にしか情報を伝えられなくても、自分の強い思いを託して描いているので、その精神性は大いに反映されているはずです。

だから、なんとなく上手に描ければいいみたいなお気楽なものではなく、私の心の拠りどころであり、生き甲斐なんです。たとえどんなに私をこき下ろして絵を描くのをやめさせようとしたって、できませんよ。

ところで、実はこの記事を書いている間も、さっきから根性の悪いもう一人の自分が囁きまくってるので、それを黙らせるための文をちょいちょい書いています。

「直接内面を描く表現をすればいいじゃん」と思う人もいると思いますが(←根性の悪い自分が「お前の表現は素直じゃないんだよw」と言い出してきている)、それは私には無理です。したいとも思わない。だって、楽しくないし面白くないんだもん。楽しくも面白くもないことは続けられません。私にとって表現する手段は、物語を介したやり方しかできないのです。これを20年以上続けてきたんですよ。

そう考えると、そんな私の大事なものを「評価」するとかしないとか、なんか、人の生き方を品評してるみたいで嫌じゃないですか。だったら評価云々じゃなくて好きか嫌いか、共感するかしないかの話ですよね。

素直になることは汚くすることじゃない

高校時代のクソ美術教師のくだりでも書いたように、本来美術芸術というのは、既成の価値観から人間を解放し、自分自身に生きる生き方です。でも、それは一部の現代アーティストがするように敢えて汚く荒く描くことではありません。「美しく描こうとするのは取り繕ってて俗っぽい」と豪語する彼らの言葉は、それを言う彼らの「美学」であり、私の美学と異なります。自分に生きようとするなら、そんな他人の「立派そうな言葉」に無理やり従うのではなく、私の素直な美学に従ってこそ私の表現です。自分の表現世界を自分なりに綺麗でカッコよく描きたいと思うのも、私の精神性の一部であり、他人がとやかく言う筋合いはないんです。
(↑「素直になるなら汚くしろよな」って根性の悪い自分が囁いている)

そう考えれば、私がこれまでやってきた創作活動には、一切間違いはなかったと確信しています。たとえ「世間」を装う根性の悪い自分がすぐ隣にいたとはいえ、創作中は本来の自分に正直だったし、全く後悔はありません。それが他人の目を意識した途端、根性の悪い「世間代表」の面をした意地悪な自分が立ちはだかり、自分の作品には何の価値もないかのように傷つけられていただけなのです。